少年期から俳句や小説の才能を発揮しており、1915年に博文館が手がける『文学世界』に応募した短編が1等を獲得する。 これを機に1919年に上京し博文館編集部に勤務、『文学世界』の編集を担当する。 同郷の正宗白鳥、徳富蘆花の影響を強く受け詩の執筆も始める。 そのかたわら早稲田大学英文科の聴講生となり、ロシア・ドイツ文学やシェイクスピアを学ぶが1年あまりで中退。 その後は川端洋画研究所に通い、3年間デッサンを学んでいる。 1922年、詩集『夕の哀しみ』を出版。1928年には『ハイネの訳詩集』(生田春月との共著)を新潮社より出版。 博文館の『婦人之国』の編集などにも携わった。1930年、博文館を辞め作家として独立するが、 自己の文学に限界を感じ強度の精神衰弱に陥る。
1937年、文学を断念し帰郷。 翌1938年、近隣に住む正宗白鳥の弟で万葉学者の敦夫の勧めで、三村梅景に師事し備前陶芸の道を歩み始める。 当時40歳という遅いスタートであるが、1948年に国認定の技術保存資格者(丸技)の資格(備前焼では他に金重陶陽、山本陶秀のみ)を受けたのを機に作陶への生涯を決意する。 金重陶陽や北大路魯山人らからも指導を受け、技術向上に邁進した。 特に金重陶陽が先駆となった古備前復興の継承に尽力。 桃山古備前の技法を基礎にしながらも、窯の中での自然の変容を生かした近代的な造形が特徴である。 師である金重とは対照的で素朴で大らかな作品が、古くから受け継がれた備前焼の新たな展開を示し、後進へ大きな影響を与えた。
1954年、魯山人の斡旋で日本橋高島屋にて個展を開く。 同年、岡山県指定無形文化財「備前焼」保持者に認定。 1958年には日本工芸理事に就任。 1962年プラハ国際陶芸賞を受賞した。
1970年4月25日、重要無形文化財「備前焼」保持者に認定。 1972年、勲四等旭日章を受章。 1976年には備前市名誉市民となる。同年備前市には財団法人藤原啓記念館が設立されており、藤原啓自身の作品や数々の古備前を展示している。
1983年、肝臓ガンのため岡山大学付属病院にて逝去。同日、勲三等瑞宝章を受章した。
「いのちがけで社会主義運動に走ったこともあった。無一文になって、寒い冬の日、夜空の星を眺めながら泣いたこともあった。下手な小説や詩を書き、帝劇でその他大勢の一人として舞台に立った時もあった」
「あの柔らかで弾力のある備前の土の感触に安らぎを覚え、創作意欲をかきたてられ、苦しかったそれまでの私の人生がどこかへ去ってしまったような、そんな嬉しい希望に満ちた時であるように思えた」(陶芸家として再出発を決めた41歳の時)
「生涯、陶芸家は焼物だけわかっていてもだめ。絵画も彫刻も音楽もわからなければ真の芸術家にはなれない」
「わしゃ、カセ胡麻が好きだ。窯変のごてごてしたのより、赤くぬけた『赤窯変』などは使っていて楽しい」
藤原啓の世界
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